子どもたちが知ることを
喜びである と感じていない
この言葉に激しく反応した
そうかもしれない
きっとそうなのだろう
感動とは学んだことに対して素晴らしいと
素直に思えること喜びのない学びから何が得られようか
けれど子供だけではないのではないかと思う
何故ならばその子どもたちは
いずれ大人になる (年齢での区切りで言えば)
嫌...もう既に大人になっているのだと
考えた方が良い
構えと教育 というタイトルで書かれた
齋藤孝さんの書かれた文章を読んだ際
スパークした⚡⚡⚡
喜びと感じていない という言葉が
深く心を捉えて離さない
感動と習熟の二つを齋藤孝さんは
教育における柱だと考えている
感動とは学んだことに対して
素晴らしい!!!と素直に感動する心
その素直さから更なる感動を求める
連鎖が始まりそしてそれを憧れ
という形にまで発展することが出来る
喜びを感じない生徒達の中で学んでも
憧れの対象がいないわけだから
相乗効果も期待出来ない
とかく何かを強制するということに否定的であるから
新しき試みも生じにくい
ゆとり教育に対する反省もなく
誰も責任を取ってはいない
日本はこれでいいんだろうか?
アジアの国と比べてもレベルが高い教育をしている
することが出来るとは思えない
教育とはある程度高度なことを教えこまねばならない
何故ならば難しき課題に取り組んだ後に
乗り越えた喜びが生まれるからだ
本に対する感覚も現在ではだいぶ廃れてきている
福沢諭吉の時代では本を跨ぐ事さえも憚かられた
かつて本は人格だった
尊敬の念を持って人と接する倫理観が求められた
振り返って教師に対して今現在の生徒達は
どう思うんだろうね
同じく尊敬の念を持ち信じ信頼し授業を受けて
受けられているのだろうか?
みるくこーひー
この人にはかなわないなという気持ちを
持たせなくては教育なぞできない
そういう気概を持ちにくい現状を打破するべきだと思う
ニコニコしながらも子供には譲らない
自分と出会ったのが運の尽きというような
雰囲気を醸し出し子供たちに
覚悟を促す
齋藤孝さんの言う教師の選考についても同意できる
心からね 子供たちにやる気を起こさせ向上心を
待たせる気概を持つ そういう人を選考してほしい
学問をする人を助けるのは私の道楽だ
カラリと晴れた心を持ち
恐れを知らずに生きた
外国に維新政府に新しき学問に
福沢諭吉にとっての私立とは独立という
積極的意味を持つ概念だった
#福沢諭吉が生きていたら #齋藤孝
良い文章を拝見させて頂き純粋に嬉しかった
学ぶことと気概が教育の現場では切り離されている
それではいけない僕もそう強く思う